派遣村関連について考える(その1)

年末から話題になっていた派遣村。僕は2年ほどだけど、派遣村じゃない別の団体の、いわゆるホームレス支援な年越し炊き出しとかに参加していることもあって、ちょっと興味を持っていたのでした。

年越し派遣村が解散した後の人達(これはなんと呼称するのが一番ふさわしいんだろう)は、現在都内のいくつかの施設に移っています。その施設のひとつがある練馬区で、練馬区議の方々が発起人となってその後の支援についての相談会が行われたので、区外の人間ではあるのですが参加してきたというわけです。

まずは派遣村とその後についての現状確認とかを。
新聞に報道されていることともかぶります。

派遣村実行委員会が厚生労働大臣に対して緊急避難場所の提供を養成し、1月5日までは庁舎内の講堂が急遽開放されました。が、その後は各地の区民施設等を開放して事にあたっています。派遣村の人達のうち、わかっている範囲でのどこにどれだけ振り分けられたかというと

中央区の京華スクエア:80人
中央区の十思スクエア:74人
練馬区石神井学園用体育館:136人
大田区のなぎさ寮:21人(?)

という感じです。で、この振り分けの対象になったのが、厚生労働省講堂等に仮泊して、なおかつ緊急支援が必要な者ということだそうです。派遣村に登録した人のうち、300人強の人が対象となったらしいです。

ちなみに日比谷公園から各所に移動中にいなくなっちゃった人(発熱で入院とかもあったらしいです)もいれば、逆に登録をしないまま移動のバスに乗っちゃって、登録が無いからと追い出された人もいるそうです。で、石神井のところは基本的に全員男性のみ。年齢層は幅広く若い人からお年寄りの方まで含めてまんべんなくいるそうな。

基本的にこれらの施設では何が行われるのかというと、12日まで居所の確保。そしてお弁当の提供と、毛布の貸与。さらにはハローワークによる就労相談と、東京都福祉協議会による緊急小口資金の貸し付け相談と、TOKYOチャレンジネットとか福祉事務所とか東京しごとセンターとか東京都労働相談情報センターなどの各種相談窓口の紹介ですね。

ここにいるのは派遣村と言っているので派遣切りをされた人達だけかというと、やっぱりそうではないということ。派遣切りの人もいれば20年ぐらい路上生活を送っている人もいるし、さらには精神障害でいじめにあって施設から脱走した人とかもいるわけです。やっぱり基本が「年越し越冬炊き出し」なわけですから、路上生活の人もたくさんいるんですよね。なんとかみんなで頑張って新年は迎えようよ、冬を越そうよというものに、派遣切り問題が入ってきて「派遣村」という名前がついたわけです。これはネーミングの勝利と考えるかどうかというと難しいなあ。実際そのおかげでたくさんの寄付金が集まっているんですが、問題が返ってややこしいことになっている気もしますので。

具体的な支援内容として、まずは生活保護のお話から。生活保護は基本的に、それぞれ現在いるところの区に対して行われるらしいです。派遣村があった日比谷は千代田区。というわけで、派遣村にいる間に生活保護の申請を行うと、以後は千代田区の管轄になるそうな。一度申請を出したら対応場所はきちんと別の場所で入居するまでは変わらないので、派遣村にいるときに千代田区へ申請したらその後練馬区に移動しても千代田区の管轄になるそうです。ややこしい。この派遣村での措置のおかげで、交通費がおぼつかない人達の手続きやらなにやらが余計煩雑になっちゃったような気がしなくもないです。

ちなみに生活保護申請を行ったのは、練馬に移動した段階では全体の半数(これが千代田区で申請した人達)。現在は8割以上の人達がそれぞれの施設のある区も含めて生活保護の申請が完了しています。

生活保護の運用に関しては、12日までに申請を受けた全ケースについて決定を出すようです。さらに、アパートが決まらなくても住宅扶助を出すし、生活保護が適用される人に関しても緊急小口資金(1万円)の貸付を行います。異例の対応ではあるんですが、多分千代田区へ手続きをしに移動する交通費もなかったりする人もいるための措置なんだろうなあ。

次にハローワーク関連だと、今回はハローワークは住居確保見込み案件という、ようは住居がある仕事の案件を4000件持ってきていたそうです。ただ、中には期限が切れた案件もあるようなので、4000件全てが有効求人とは限らないんですけど。それでもまあ、これだけの案件を持ってきているそうです。

で、お金の話。お金が無い人に対しては、緊急的かつ一時的に生計の維持が困難になったときに5万円を限度に融資をするわけです。これが緊急小口資金。東京都社会福祉協議会の管轄ですね。据え置き期間(2ヶ月以内)は無利子で、貸付利率は2%になります。このときに、ある程度以上の金銭の管理ができるか審査をしてからお金を貸しています。こういうお金が無いと、交通費がなかったり、履歴書を買うお金とか証明書用の写真を撮るお金が無かったりするんじゃないかな、と。だからやっぱり派遣村の人達にも重要なわけですね。

食事は、お弁当が出るようです。やまて福祉会に委託されているのかな? ただ、暖める機械とかは無いので、油っこい冷えた弁当を食べることになっているそうな。派遣村のときは温かい汁物とかがあったんですが(これは越冬炊き出しだからというものもある)、施設の方ではそれがないんですね。たとえば災害時の避難用に、料理を温めるバーナーとかは避難所に用意されていたりするんですが、それを使わせてあげられないかと派遣村実行委員会の方で言ってもうまくいっていないようです。この辺の理由は後述。

これらの支援の元、集まった人達がぬくぬくと暮らしているかというと、やっぱりそれは違うわけでして。そもそも集まった人達の中には仕事があるけど住居が無い人というのも結構いるみたいなんです。「施設の塩梅はどう? 夜は寝られる?」と尋ねると、「夜は仕事でいないからわからない」と答える人いるとか。だから本当に仕事も住居も無い人がいれば、仕事はあるけど住居が無いという人もいるわけなんですね。その場合、同じ支援内容じゃ当然駄目なわけです。

あと、派遣切りと呼ばれる人達ではどういう人が多いか。新聞やニュースでは、12月末に切られてすぐに派遣村に来た人が登場することが多いみたいなんですけど、むしろそれよりも9月や10月に切られた人の方が多いみたいです。仕事がなくなって、それまでの貯金で1〜2ヶ月頑張ったけど万策つきてしまったので派遣村に来たという人の方が多いみたいです。あと、飯場の人達でいつもなら年末の工事で年越しの銭は手に入るのが、今年は工事が少なく、飯場の寮費がどんどん取られてしまうので仕方なく飯場を離れ、派遣村に来たとか。

だから実は、年末に派遣切りにあった人達の問題が本格するのは、むしろ3月ぐらいからという見方もあるわけです。さらに今年は経済がちょっと厳しい状態で、実はこの会社も決算を乗り越えられなかった! 的なことになったりすると今の派遣村よりももっとすごいことになるかもしれません。

というわけで、本来ならば誰がどういう理由でここにいるのかというのを、都は把握しなければなりません。が、それを把握できていないんですね。これは派遣村実行委員会の方でも把握できていません。多分これが一番大きな問題だと思います。人によって必要なものが違うのに、都は画一的な支援を行っているわけですよ。相談してください仕事紹介しますお金貸すから後は自分で何とかしてください、みたいな。

でもこれはある意味「都」というものの性質上、仕方が無い点でもあると思います。それは、やっぱり派遣村だけを特別扱いするわけにはいかないんですね。たとえば練馬区には区の相談員は3人、ハローワークの相談員は3人います。それぞれ1人ずつ、場合によっては2人までは施設に来ているんです。もっとスムーズに支援を行うために、これらの人員を増やせと言うのは簡単ですが、じゃあ派遣村じゃない人達が正規の手続きで申請したり相談したりするときの業務に差し障りが出ていいのかという話になってしまう。

さらに、都には今回のケースのような特殊な場合の支援メニューが無いんですね。ただ場所を提供しただけです。今回必要になるもので、衣類・医療・交通費等を提供するメニューが無かったりするわけです。生活保護の申請を早めたり、かなり異例の対応をしているんですが、すでにメニューにある内容を増やしたり処理を速めたりはできても、そもそもメニューに無い対応を行うのは難しいんですね。

というわけで、本来ならばそういう都や区などが行き届かない部分を担当するのがNPOなわけです。が、都が「東京都が責任を持って支援を行う」と言い、さらには「地元に迷惑はかけない」と言っているのでこれまたややこしいことに。具体的には、指揮系統も混乱しているせいで、たとえば派遣村実行委員会の方が「今度○○へ行くバスが出ます」的なポスターを貼るのも、都の職員に決定権が無いわけです。というわけで、貼るのを止めて上司に聞かなきゃならない。そんなことをやっていて、貼るまでに時間がかかったりするという状態になっているそうな。

支援の実施期間が行政に移ったので、正攻法で申請をするしかない。でも、今回は12日までという時間が限られているので、申請をしている時間が無かったりするんですね。ああ難しい。

PEACE ADに行って来た(その2)

次は伊藤剛先生。広告の専門家で、平和をどう広告するかについてのプレゼンを行ってくれました。以下、また箇条書きで。

●今の戦争はプロパガンダが非常に重要
 ・911の時にはシャーロット・ビアーズが国務長官になり、アメリカのブランド化と世論形成を行った
 ・シャーロット・ビアーズはマディソン街(広告業界)の女王と言われている人
湾岸戦争時のプロパガンダに「ナイラの証言」がある
 ・クウェート人のナイラという少女がクウェートの病院でのイラク兵の蛮行を証言
 ・それにより世論がイラク許すまじへ
 ・実はナイラは在米クウェート大使の娘でクウェートに行ったことすらなかった
●戦争広告代理店
 ・ボスニア紛争におけるPR企業の役割を取材したドキュメンタリ
 ・ボスニア紛争では「Ethnic Cleansing(民族浄化)」というキーワードが効果的に使われた
ナチスドイツの宣伝相ゲッペルス
 ・祝祭日すら掌握していた
●コミュニケーションの図
 A→B
   B→C
      C→D
 ・BからDはロジックから生まれる=ロジカル
 ・ロジカルなものはいくらでも作ることができる
 ・Aはロジカルではない=前提
●コミュニケーションとはこの前提を考えることに他ならない
 ・前提を作るものはマスメディア
 ・ではメディア・リテラシーとは? 情報を疑うこと?
●メディアは編集している。メディアの前提がある
●平和の広告は難しい
 ・平和や愛は目に見えない。言葉にすることが難しい
 ・言葉にする事が難しいものを「前提」に使っている
 ・失ってから価値に気づく類いの物を、失わないようにしようと広告をうつことが難しい
 ・それは言葉では伝わらないのかもしれない
●平和を守るための広告映像作品のサンプル

 伊藤先生のお話のテーマは、一貫して広告とコミュニケーションについてでした。広告(プロパガンダ)が戦争において如何に重要なことを成し遂げて来たかの歴史から始まり、平和をアピールする広告とは何かを模索しているという話で終わりました。

 特に戦争と広告の歴史は非常に興味深いお話が多かったです。昔見に行った、「幻のロシア絵本展」という展覧会でもスターリン時代のソ連が絵本やポスターをプロパガンダに利用して世論を動かしていたというお話が出ていたのを思い出しました。日本でも色々な雑誌とかで「ススメ一億火の玉だ」とかキャッチコピーを作って国威高揚をしていましたが、それもまさにプロパガンダそのものですね。で、こういった戦争とプロパガンダの関係性については、「民族浄化」というキャッチコピーを生み出したボスニア紛争におけるPR合戦を詳細に取材し、その結果を本にまとめた「戦争広告代理店」という本を薦められました。即座にその場でAmazonで買おうとしたら、実は家にあることが発覚したので買わなくて済み、今読んでたりします。この本については何かエントリを書きたいな。

 最後のサンプルの映像は、多くの人に「あなたにとっての幸せ(平和だったかも)とは何ですか?」という問いかけを行い、それを感じさせる写真を撮ったものをかっこよくつなげていく映像です。なんかこう書くと陳腐に聞こえちゃうかもですが、実際の映像は非常にかっこいいものでして。平和って失わないと気づかないとは良く言いますが、何でも無い平和な日常こそが守るべきものなんだというメッセージが強く伝わってきました。なるほど。これがPEACE ADなんだなと感じさせる映像だったと思います。

 で、マエキタ先生のお話はまた続くのでした。多分明日に。

PEACE ADに行って来た(その1)

なんかあれこれ途中で止まっていますが、怒られたので今月はてろてろ更新していこうと思います。

で、また途中の話題をほっぽって新しい話題になっちゃうんですが10月4日にPEACE ADというイベントに参加してきました。

http://www.waseda.jp/wavoc/event/20080912.html

誤解を恐れずに一番簡単に一言で要約すると、平和を構築するために広告を利用できないか? ということを話し合うシンポジウムです。

当日はちょっとだけ遅刻して行ったら、会場は超満員。立ち見もすでにいて、さらに立ち見すらできないような状況でした。

最初の基調講演は伊勢崎賢治教授。自らを紛争屋と嘯く伊勢崎先生は、世界各地の紛争処理を行った人。というわけで、その紛争の話から始まったのでした。以下、大まかな内容の箇条書きっぽく書きます。ちなみに主に映画ブラッド・ダイアモンドで出て来たシエラレオネの話題です。伊勢崎先生は開発援助団体NGOの責任者として赴任し、内戦(紛争)が起き、紛争処理の責任者として再度赴任したという経緯があるのでした。あの映画はよくできているけど、現実はあの20倍ぐらい悲惨な状態だったそうな。

シエラレオネは内戦前は世界最貧国だった。
 ・広範囲の汚職
 ・国家歳入にならない地下資源(全て外国に持って行かれる)
 ・士気喪失した国軍・警察という悪条件が揃っていた。
●現状の政府を倒すべくRUFという反政府ゲリラが結成された
 ・反政府ゲリラは若者中心。そのため世代間戦争の構図が出て来た
 ・若者がファッションでゲリラへ参加する
●ゲリラでは子供兵がカラシニコフ、RGBを使う
 ・子供兵は一度人を殺すことを覚えると大人より残酷に殺人を行う
 ・子供兵は最悪の最終兵器
●最初は崇高な目的(革命)でも内戦が続くと国は疲弊する
Peace Makerは停戦調印後の方が難しい
 ・和平合意の後の方が対立がぐちゃぐちゃになって難しいから
 ・和平合意とは妥協及び痛み分けのこと。Power Sharing
●テロリストとは誰にはむかっているかで決まる
 ・何をもってテロリストと言うのか?
●無条件降伏は近代ではありえない
 ・テロリストは民衆から生まれる
 ・テロリストを制圧し、民衆を制圧すると、その民衆からテロリストがまた生まれる
 ・民衆を全員殺すことは不可能ならば、無条件降伏はありえないことになる
●アフリカ人一人の命と日本人一人の命は同じ重さか?
 ・残念ながらそうではない
●国連安保理はアフリカ人が10万人死んだぐらいじゃ動かない
 ・疲弊したゲリラは、生きながら子供の手足を切ったりする行動に
 ・それでようやく国連安保理が動く
●紛争は予防可能か?
 ・可能であると感じている
 ・平和的解決は無い
●法の支配とは?
 ・法で支配するということは、その法を出す側が軍と警察という2つの暴力装置を独占していなければならない
●紛争を起こさないための早期警戒の仕組みがあればいいのでは
 ・それこそがメディアの力であり、役割では?
 ・ただし、Pre-Conflict(紛争前)はお金にならないため業界を作りづらい
 ・だが作らなくてはならない

 と、こんな感じ。最後に伊勢崎先生は紛争の起きるメカニズムを図にまとめてくれました。それを元に、保護する責任の上位概念として、紛争を起こさないためのResponsibility To Prevent(予防する責任)についてお話して〆という感じです。

 結局のところ、紛争=戦争は暴力行為であり、暴力行為はセクシーであり魅力的である、と。誰にとっても魅力的でお金になるから紛争をお金にすることはもう行われているし、だからこそなくならない。むしろ紛争がなくなると、各種軍事産業や人道的NGO団体が困ることになる。紛争前の平和な状態は、お金にならないため、業界を作ることが非常に難しい。でもそこを、広告の力とかを利用して何とか作って行かなくてはならないというのがPEACE ADのそもそもの考え方だということでした。

 ここで重要になるのが日本の役割になる、と。憲法前文に書かれている「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」のように世界中の国について言及している憲法を持っている国は日本の他には無い。だからこそ、日本が国際情勢で果たす役割が重要になるし、その立ち位置=日本が培って来た信頼もあって、自分は武装解除を実現できたとのことです。

 一番印象的だったのは、Peace Makerは和平合意の後が難しいという部分。つまり、基本的に無条件降伏がありえないわけですから、どちらの要求も完全に満たす和平合意というのはありえないわけです。でもって、さらにトップは和平合意をしても、現場の指揮官がそんなの聞いていないって言ってさらに対立したりと、対立構造がぐちゃぐちゃになって難しくなるんだそうな。そんな中、軍と警察を一手に握り、その対立している小さなグループを訪れひとつひとつ要求を聞いていき、全部は要求は飲めないけど一部は飲むというスタンスおよび安全保障を行うことでそのぐちゃぐちゃな状況を武装解除していったというから本当に凄い。

 でも、「自分がシエラレオネの開発の責任者をやっていた頃、紛争の予防ということに意識が少しでも行っていれば、紛争は防げたかもしれない。今でもそう思う」と述懐していたのも印象的でした。

長くなったので、伊藤先生のお話は明日へ(また続き物か!)

麻生太郎講演「とてつもない日本」を聞いてきた(その2)

麻生さんは他にも日本のいいところを挙げていました。特に、外国の人が日本に来て驚いた点をいくつか挙げてみると

「地下鉄で夜中に寝ていても大丈夫なんて信じられない」
自動販売機が外に出たままなんて! そんなことありえないよ!」
「夜中に女性が一人で公園を歩いている? そんな治安のいいところがこの世にあるわけがない」

これは全て、外務大臣時代に麻生さんが実際に海外の方から言われたことだそうです。

例えばニューヨークなんかでは、地下鉄の中で殺される事件はもう当たり前すぎていて、全てがニュースとして報道されないぐらいの頻度で発生している、と。それが日本では終電でサラリーマンが地下鉄の中で寝ちゃっていても、財布を盗まれたり殺されたりしないだなんて。治安がいいにもほどがある!

自動販売機は販売をしているんだから、中にお金が入っているんだろう? ということは、普通の場合、自動販売機を外に出していたら、あっという間に壊されてお金を盗られてしまうよ。でも日本ではこんなにもたくさん自動販売機が外に出ている。なんてアンビリーバブル!

夜中に公園の中は、大の男ですら歩くと怖いし、そこで殺されても殺されるのが当たり前でニュースにもならない、というのが常識だろ? でもなんで、あの女性は夜中に一人で公園を歩けているんだい? 変じゃないか!

というようなことを言われてたんだそうです。

これってどれもこれも、我々としたらごくごく当たり前のことなんですが、その当たり前というのが実はとても凄いことで。そういう我々が気づいていない点が高く評価されているということを、日本人はもっともっと知った方がいい! と力説されていました。

それから日本人が外からどう見られているか意識していないという事についてはこんな話もしていました。

日本の経営者は、勝って兜の緒をしめよ的な意味で、どんなときでも朝礼の挨拶などで「我が社を取りまく環境はとても厳しい。だが……」という話をしがちです。それは、日本人の間でだったらいいわけです。

ところが大きな会社だったりする場合、このスピーチは直訳されて海外へ伝わってしまう。そうすると、どんなに好調に見えてもトップが厳しいって言っているんだから実は厳しいんだろうということになってしまう。ニュアンスまでは伝わらなく、そのまま直訳的に伝わっちゃうんですね。そうなると「あ、やばいんだ! 株売らなきゃ!」となって、どんどん日本の株が売られてしまったりする、と。

もちろん日本国内では、「我が社を取りまく環境は厳しい」的なメッセージで全然かまわないんですが、海外と関係するところだったらもっと海外からどう見られるかを意識しよう! とのことでした。つづく。

麻生太郎講演「とてつもない日本」を聞いてきた(その1)

秋葉原の奴をどうまとめようかと悩んでいるうちに、近所にローゼン閣下こと麻生太郎さんが来るということで、講演を聞きに行ってきちゃいました。会場は500席以上入るところだったんですが、立ち見が出るほどの盛況ぶり。若い人もちらほら見えます。

麻生さんはちょっと遅刻して会場入りしたんですが、もう最初から飛ばす飛ばす。

「この中で、生で麻生太郎を見るのが初めてって人はいるかい? お、結構多いね。じゃあ、どうだい。実物はテレビよりもいい男だろう」

政治家の講演でこんなスタートは初めてかも。面白いなあ。

講演の内容はタイトルが「とてつもない日本」ということで、基本的には著書である「とてつもない日本」とだいたい同じ話の構成でした。

まず最初に強調していたのは、日本は海外から高く評価されているという点。

ぶっちゃけた話、中国と韓国以外の国からは日本というのはかなり高く評価されている。で、これは日本がお金を出している(ODAとか)からだろうと思う人は考えが古い。今はODAでお金を出している国で言うと、日本は世界で5位でドイツよりも下に位置していると。近々イタリアよりも下になるとのこと。

というわけで、日本はお金を持っていてお金を出しているから高く評価されているんだ! と、いうのは事実ではないそうな。むしろそういうことを言っているいわゆる団塊の世代が想像していない、彼らが言うところの「いまどきの若いもんは」という若いもんが評価されていたりするわけです。

ホンジュラスで日本の青年海外協力隊が活動をしていたとき、現地の子があまりにも計算とかできないのがわかった。これは何故だろうと思って原因を調べてみたら、教科書が悪いのが全ての元凶だったという。教科書の出来があまりにも悪いので、先生側も上手く教えられないし、子供も勉強がわからなくなって学校に来なくなってしまう。

そこで青年海外協力隊スペイン語で教科書を作成。さらには先生用の副読本も作っちゃった。もちろん正規の活動外だから無償で現地の子達のためにやったこと。でもそのおかげで子供が学校に来るようになり、わずか3年ぐらいでその地域の学力がぐーんとあがったという。これは算数指導力向上プロジェクトして、周辺の国も参考にしている大きなプロジェクトになっています。いまではその時に作られた教科書が、ホンジュラス初の「国定教科書」になっているそうな。

それとか、若者文化の象徴たるさまざまなキャラクターがいま世界でどれだけ評価されているか。例えば東南アジアでは、それこそミッキーやドナルドよりもポケモンドラえもんの方が人気があるというか、もうポケモンドラえもん一色と言っていいほど。日本だとどうしてもディズニーの方がキャラがたっているように見えるけど、外では全然違うんですよ、と。(ちなみに『キャラが立ってる』って言葉がわからない人はこの話が理解できない層だねとか言ってました)

もちろん団塊の世代でも日本のイメージアップに貢献している人はいて、警官を退職した後にインドネシアで交番を作って婦人警官を配置し、その地域の犯罪発生率を減少させると同時に女性の雇用問題を解決し、今や国中にそれが広まることになった現地では神様のように尊敬されている人の話とかもされていました。

ここでポイントになっているのは、青年海外協力隊の人達も、交番を広めた人も、自分たちにとっては当たり前の活動しかしていないというところ。日本人にとってのスタンダードが、これだけの成果を生み出し、周囲の国にいい影響を与えているんです。

こんなにもいいイメージを持たれているし、素晴らしい活動をしている人達がいるのに、日本では他の国からどのように見られているかを意識していない人が多いわけです。これはもったいない。

もっともっとどのように見られているか、そして日本のスタンダードは世界に通用するものもあるんだということを意識していこう! ということでした。つづく。

秋葉原の通り魔事件報道について考える(その1)

先日の秋葉原での通り魔事件はショッキングな事件でした。他の事件に比べて、何度も通っている場所だったということや、たまたまその日は家で仕事をしていたために事件発生からいち早くUstreamやニュースなんかを見続けていたためか、事件そのものが身近に感じられました。そのため、ショックもひとしおだったわけです。

この件に関しては様々なブログ等で見聞きした範囲では、マスコミの報道に対する不満も出ているようです。
親や祖母に対するインタービューなんかはどうかとか、卒業文集とかをひっくり返してまでアニメ等に結びつけようとしているとか、トヨタに遠慮しているんじゃないかとか。ようするに、ちょっと恣意的でワイドショー化しすぎじゃないかという論調などが多いみたいです。

こういったマスコミの報道の仕方については批判する人が昔から多いと思うのですが、何故なくならないのか?
それはやっぱりマスコミが一般大衆向けに報道しているということが一つのポイントじゃないかと思います。
じゃあ一般の人はそういう報道を望んでいるの? という話になるんですが、これは望んでいると言えてしまうでしょう。

ASIAPRESSの野中さんのゼミに先日潜り込ませていただいたんですが、そこで野中さんが「理由なき殺人は社会を不安にさせる」とおっしゃっていました。

つまり、理由がある殺人は(その是非はさておいて)わかるわけです。あいつが憎いから殺したい、利害関係があるから殺したい、痴情のもつれから殺したい等々……もちろん理由があるから人を殺してもいいとは決して言いませんが、こういう事情が見える場合には犯人がどういう動機で殺人を犯すに至ったかということが見えるわけです。

ところが今回のような通り魔事件の場合、無差別に人を襲っています。被害者になった人には理由がない。これは気をつけようがないわけです。普通に生活を送っているのに、急に被害者になる可能性がある。そして、隣にいる人がもしかしたら急に事件を起こすかもしれない。これは怖い。だからこそ、理由なき通り魔事件は社会を不安にさせるわけです。

こういう事件の場合徹底して犯人のことを掘り下げて、時には恣意的とも言える報道がされるのは、こういう不安を解消するためでしょう。理由なき殺人に直面した場合、誰しもが無意識に求めるのは「理由」で、この人はこういう「理由」があるからこういう事件を起こしたという背景が欲しいわけです。それによって納得がしたいんですね。それからこの犯人と自分とが違うということを確認したいというのもあるでしょう。両親へのインタビューもつまるところは「この家庭はこういう育て方をしている。うちとは違う」ということを確認したいという気持ちからきている部分もあるのではないかと思います。

その「理由」付けで一番いま槍玉に上げられているのが、「ゲーム」や「漫画」「アニメ」でしょう。最近だと「ゲーム」と「アニメ」の方が多いのかな。ゲームの影響がどうだとか、ゲームに出てくるナイフがどうだとか。確かにわかりやすい「理由」ですけれども、こういう報道をする側は今の日本においてゲームや漫画やアニメに触れた事が無い人がどれだけいると思っているのかな、とは毎回思います。漫画やゲームが全く無い家庭って、少なくとも僕の周りの人にはありません。もちろん、それらのゲームやアニメが原因の可能性もありますが、少なくともそれはもっともっと掘り下げていって、本当にそれらが原因とはっきりしてから報道するべきじゃないでしょうか。

フィクションの世界ではあるけれども、映画「それでも僕はやっていない」において、痴漢冤罪で捕まった主人公の家からアダルトビデオが発見され、やはり痴漢をしたいという願望があったんだ! と決めつけるシーンがありました。もちろんこの映画では痴漢そのものが冤罪であるので、アダルトビデオは関係がないんですが、それでも関連性があると決めつけられてしまう。主人公側に感情移入をしていると、それはこじつけだろう! と思ってしまうシーンなんですが、マスコミがゲームやアニメを槍玉に上げるたびにまさにこのシーンと同じことをやっているように感じるわけです。

でもこれはマスコミがゲームやアニメを憎く思っているのではなく、わかりやすい「理由」の記号として槍玉にあげられているんでしょう。昔は漫画の影響とかが主流だったのが、最近はゲームが原因の主流になってきたように、他のスケープゴートが見つからない限りはこの傾向はなくならないんじゃないかなと思います。それはやっぱり「理由」が無いと不安に思う人がたくさんいるから。僕はゲームが大好きなんで、ゲームがこういう時に槍玉に上げられてしまうのは悲しく思います。思うんですが、一方でわかりやすい「理由」を求める人達の気持ちというのも何となくわかるんですね。

だからこういう形式の報道はしばらくはなくならないと思います。でも、そういう報道を見たくないと思っている人も年々増えているんじゃないでしょうか。こういう報道を見たく無いと思う人が「マス」になれれば、自然と違う報道の形式になっていくんじゃないかなーなんて思っていたりするのは考えが甘いのかなぁ。でも実際、今回の事件ではインターネットを使った新しい報道の形をかいま見せてくれたような気もしますし。その新しい報道の形って何なの? となるわけなんですが、それに関してはまた次回ということで。