秋葉原の通り魔事件報道について考える(その1)

先日の秋葉原での通り魔事件はショッキングな事件でした。他の事件に比べて、何度も通っている場所だったということや、たまたまその日は家で仕事をしていたために事件発生からいち早くUstreamやニュースなんかを見続けていたためか、事件そのものが身近に感じられました。そのため、ショックもひとしおだったわけです。

この件に関しては様々なブログ等で見聞きした範囲では、マスコミの報道に対する不満も出ているようです。
親や祖母に対するインタービューなんかはどうかとか、卒業文集とかをひっくり返してまでアニメ等に結びつけようとしているとか、トヨタに遠慮しているんじゃないかとか。ようするに、ちょっと恣意的でワイドショー化しすぎじゃないかという論調などが多いみたいです。

こういったマスコミの報道の仕方については批判する人が昔から多いと思うのですが、何故なくならないのか?
それはやっぱりマスコミが一般大衆向けに報道しているということが一つのポイントじゃないかと思います。
じゃあ一般の人はそういう報道を望んでいるの? という話になるんですが、これは望んでいると言えてしまうでしょう。

ASIAPRESSの野中さんのゼミに先日潜り込ませていただいたんですが、そこで野中さんが「理由なき殺人は社会を不安にさせる」とおっしゃっていました。

つまり、理由がある殺人は(その是非はさておいて)わかるわけです。あいつが憎いから殺したい、利害関係があるから殺したい、痴情のもつれから殺したい等々……もちろん理由があるから人を殺してもいいとは決して言いませんが、こういう事情が見える場合には犯人がどういう動機で殺人を犯すに至ったかということが見えるわけです。

ところが今回のような通り魔事件の場合、無差別に人を襲っています。被害者になった人には理由がない。これは気をつけようがないわけです。普通に生活を送っているのに、急に被害者になる可能性がある。そして、隣にいる人がもしかしたら急に事件を起こすかもしれない。これは怖い。だからこそ、理由なき通り魔事件は社会を不安にさせるわけです。

こういう事件の場合徹底して犯人のことを掘り下げて、時には恣意的とも言える報道がされるのは、こういう不安を解消するためでしょう。理由なき殺人に直面した場合、誰しもが無意識に求めるのは「理由」で、この人はこういう「理由」があるからこういう事件を起こしたという背景が欲しいわけです。それによって納得がしたいんですね。それからこの犯人と自分とが違うということを確認したいというのもあるでしょう。両親へのインタビューもつまるところは「この家庭はこういう育て方をしている。うちとは違う」ということを確認したいという気持ちからきている部分もあるのではないかと思います。

その「理由」付けで一番いま槍玉に上げられているのが、「ゲーム」や「漫画」「アニメ」でしょう。最近だと「ゲーム」と「アニメ」の方が多いのかな。ゲームの影響がどうだとか、ゲームに出てくるナイフがどうだとか。確かにわかりやすい「理由」ですけれども、こういう報道をする側は今の日本においてゲームや漫画やアニメに触れた事が無い人がどれだけいると思っているのかな、とは毎回思います。漫画やゲームが全く無い家庭って、少なくとも僕の周りの人にはありません。もちろん、それらのゲームやアニメが原因の可能性もありますが、少なくともそれはもっともっと掘り下げていって、本当にそれらが原因とはっきりしてから報道するべきじゃないでしょうか。

フィクションの世界ではあるけれども、映画「それでも僕はやっていない」において、痴漢冤罪で捕まった主人公の家からアダルトビデオが発見され、やはり痴漢をしたいという願望があったんだ! と決めつけるシーンがありました。もちろんこの映画では痴漢そのものが冤罪であるので、アダルトビデオは関係がないんですが、それでも関連性があると決めつけられてしまう。主人公側に感情移入をしていると、それはこじつけだろう! と思ってしまうシーンなんですが、マスコミがゲームやアニメを槍玉に上げるたびにまさにこのシーンと同じことをやっているように感じるわけです。

でもこれはマスコミがゲームやアニメを憎く思っているのではなく、わかりやすい「理由」の記号として槍玉にあげられているんでしょう。昔は漫画の影響とかが主流だったのが、最近はゲームが原因の主流になってきたように、他のスケープゴートが見つからない限りはこの傾向はなくならないんじゃないかなと思います。それはやっぱり「理由」が無いと不安に思う人がたくさんいるから。僕はゲームが大好きなんで、ゲームがこういう時に槍玉に上げられてしまうのは悲しく思います。思うんですが、一方でわかりやすい「理由」を求める人達の気持ちというのも何となくわかるんですね。

だからこういう形式の報道はしばらくはなくならないと思います。でも、そういう報道を見たくないと思っている人も年々増えているんじゃないでしょうか。こういう報道を見たく無いと思う人が「マス」になれれば、自然と違う報道の形式になっていくんじゃないかなーなんて思っていたりするのは考えが甘いのかなぁ。でも実際、今回の事件ではインターネットを使った新しい報道の形をかいま見せてくれたような気もしますし。その新しい報道の形って何なの? となるわけなんですが、それに関してはまた次回ということで。